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デメトリオス1世(、ラテン文字転記:Demetrios, 紀元前337年 - 紀元前283年、在位:紀元前294年 - 紀元前288年)は、アンティゴノス朝第2代のマケドニア王であり、アンティゴノス1世とその妻ストラトニケの間の息子である。また、攻城戦が巧みであったことから、 ポリオルケテス(, Poliorketes:日本語に訳すと「攻城者」)のあだ名を持ち、デメトリオス・ポリオルケテスとも呼ばれる。 == ディアドコイ戦争 == デメトリオスはディアドコイ戦争に際しては父に随い、各地で戦った。紀元前312年にシリアに侵攻してきたプトレマイオス1世にガザの戦いで敗れる。プトレマイオスはこの時デメトリオスの財産を手中に収めたが、捕虜とともにデメトリオスの元へ送り返した。それに感服したデメトリオスはその後、プトレマイオスの部将を破った時に7000の捕虜を得たが、プトレマイオスにされたことを自らも行い、借りを返した。 その後、デメトリオスはギリシアに渡り、カッサンドロスと戦ってアテナイ、メガラなどギリシアの諸都市をカッサンドロスの支配から解放し、自勢力下に組み入れた(とは言いつつもデメトリオスはギリシアの自由を標榜しはした)。 デメトリオスは紀元前306年のサラミスの海戦でプトレマイオス艦隊を破り、キプロス島を手中に収めた。そしてこの勝利を以って同年、父と共に王を称した。他のディアドコイもそれに倣って王を称した。 デメトリオスは紀元前305年からプトレマイオスと密接な関係を持っていたロドス島を攻撃する(ロドス包囲戦)も、ロドス側の頑強な抵抗にあい、ついに落とすことができなかった。しかし、彼はその過程で他の多くの都市を落とし、ポリオルケテスのあだ名を得た。翌年、攻囲戦の長期化を望まないアンティゴノスとプトレマイオス双方が妥協し、両者の戦争においてロドスは中立を守るという和平協定が成立した。この協定はアンティゴノス側に有利なものであった。 ディアドコイ中最大の勢力を誇るアンティゴノスを警戒した他のディアドコイは対アンティゴノス同盟を結び、アンティゴノスと戦い、紀元前301年にフリュギアのイプソスにてアンティゴノスとセレウコス1世・リュシマコス連合軍が矛を交えた(イプソスの戦い)。その時、右翼を率いていたデメトリオスは背走する敵を深追いし過ぎたため、孤立したアンティゴノスの本隊が危機に陥った時に救援に回ることができず、アンティゴノスを敗死させてしまった。その後、アンティゴノスの遺領は他のディアドコイによって分割された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「デメトリオス1世 (マケドニア王)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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